かけ算の順序の昔話

算数教育について気楽に書いていきます。

積の非可換性について

 行列と,みかんの数などを求めるためのかけ算(の順序)とを対比するのではなく,算数・数学教育に関心を持ち,これまでの成果を踏まえて建設的な議論をするには,「拡張」について,認識しておきたいところです。

 このツイートを目にして,思い浮かんだのは「四元数」です。以下の本は,算数を専門とする小学校の先生なら,おそらく持っているでしょう。

算数教育指導用語辞典

算数教育指導用語辞典

 ここのpp.18-19に「形式不易の原理」が書かれています。「1 数の拡張の考え」「2 形式不易の原理」「3 形式不易の原理の素地」で構成されます。非可換(交換の法則は成り立たない)が明記されている,p.19の段落を書き出します。

 H.ハンケル(1839~1873)は,ピーコックの不完全さを見直したうえで,さらにこの原理が拡張された実数系や複素数系にまで及んで成立することを示した。さらに,原理に示された三つの計算法則は,高々複素数の範囲までに止まることを示し,さらにその拡張が多元数に及ぶときは,これらの三つの法則どれかが不成立になることを示唆している。例えば,多元数のなかでW.ハミルトンの四元数については交換の法則は成り立たない。また,A.ケーリーが示した八元数の場合では,交換法則のほかに結合法則も不成立となるのである。

 「三つの法則」とは,交換法則・結合法則・分配法則のことです。
 いったんこの本より外に,情報源を求めますと,wikipedia:四元数では定義や性質,また歴史的なことも記載されていますし,四元数は,2×2の複素行列,または4×4の実行列で表すことも書かれています。単射環準同型であることと,(そこで表現されている)複素行列・実行列の積が一般に非可換であることからも,四元数の積は一般に非可換であるのが分かります。
 交換法則(可換性)と別で,拡張によって,それまでの性質が満たさなくなるものも,いろいろ考えられます。小学校の範囲であれば,わり算は,その導入において「商はわられる数よりも小さい」*1ことを知ることもできますが,5年で,1より小さい数でわる場面を通じて,成立しないことを学びます。
 なお,有理数の範囲で成立しないとしても,わられる数は0より大きく,わる数が1より大きいという有理数においては,「商はわられる数よりも小さい」は成立します。同じように,行列でも四元数でもかまいませんが,一般に積は非可換だけれど,複素数と同型の集合に限れば,可換になり得る*2,ということもできます。
 ひき算の結果はひかれる数よりも小さいことの反例は,中学の負の数を学ぶ段階となります。中学までと高校との違いといえば,実数までは通常の大小関係によって全順序集合となるけれども,複素数では同様の全順序集合にならない*3,簡単にいうと虚数単位iについてi>0とi<0のどちらを採用しても都合が悪いことが,思い浮かびます。
 『算数教育指導用語辞典』のpp.18-19の脚注に「計算法則に関する注意事項」が記されています。「三つの(計算)法則」また「かけ算の順序」への言及がなされているとともに,国内外の算数教育の知見であると考えられます。かけ算・資料集1(2010年までの書籍) - わさっきより,転載します。ミカンとみかんの混在は,原文ママです。

 計算法則に関する注意事項
 数の拡張では,三つの計算法則の確かめが必要であったが,これはあくまでも形式であって,これと離れた具体的な場面では注意すべきことがある。
 例えば,交換法則に関しては,同じ加法でも合併なら交換が可能であるが,追加(増加)の場合では交換は不可能である。例えば,ミカンが5個あっても3個もらうと8個になるということから,3個もらって5個あってというのは意味が曖昧になってしまう。不用意に交換すると時間差を無視したりすることになる。
 また,乗法で,被乗数と乗数を交換しているのは,2次元的な面積の場合が,縦横同じ種類のものが並んでいる人間とかおはじきなどの数を求める場合はわかりよい。
 ただし,この場合でも,被乗数と乗数を交換したとき,その基準量をどうとらえたか,操作の観点をどこに置いたかをよく考え,その違いをはっきりとつかんでおかねばならない。同数累加や倍概念で操作する1次元的な乗法では,安易な交換は許されない。
 例えば,三つの皿にみかんが2個ずつあるとき,みかん全部の個数は2×3で求められる。しかし,皿の数三つにみかんの数2個をかけて3×2というのは意味がなく,このような具体的な場面で2×3が3×2に等しくなることを理解させるのは,かなり無理があると考えられる。

 積を求める際に2つの“因数”が異なる場面として,算数では3年で学習する「乗数又は被乗数が0の場合の計算」が知られています。的当てゲームで,0点のところに3回当たったときの式を「0×3」,3点のところに1回も当たらなかったときの式を「3×0」と表すことができます。2つの因数の位置が変わっただけのようにも見えますが,前者については0×3=0+0+0=0と累加で求めたり,「0+0+0」の具体的な場面を考えたりできるのに対して,後者を累加で意味付けるのは困難です。「0」を数学の文脈でいうと,零元です。ベクトルでも行列でも四元数でも,零元の任意倍と,任意の元の0倍について,結果はどちらも零元になりますが,表記上も意味上も,別物として扱われます。


 どこで交換法則が利用可能でありどこには使われない(小学校算数での適用が期待されない)かについては,今年,図示を試みました。
 拡張に関しては,東京新聞「掛け算の順序論争再燃」を読んで思ったことで少し言及しました。冒頭の方の別のツイートは,「20分/500円」から,駐車料金と最大駐車時間を計算してみるでも使わせていただいております。

*1:わる数が,乗法の単位元1のときには,わられる数と商が等しくなるので,きちんと言うなら「商はわられる数よりも大きくない」となります。http://doi.org/10.24727/00027661よりダウンロードできる論文の結論に書かれた「×0,×1の学習指導は,「かけると常に大きくなる」いう思い込みを防ぐ役割を必ずしも担っていない」も興味深いところです。

*2:n次正方行列のうち「1行1列の成分は任意の複素数,それ以外の成分は0」「特定のi(1≦i≦n)に対してi行i列の成分は任意の複素数,それ以外の対角成分は1,残りは0」「単位行列複素数スカラー)倍」が該当します。

*3:wikipedia:順序集合には「複素数全体の集合Cには複素数の乗法と"両立"するような全順序は存在しない」とある点にも注意。