かけ算の順序の昔話

算数教育について気楽に書いていきます。

中島健三から見たピアジェとブルーナー

復刻版 算数・数学教育と数学的な考え方

復刻版 算数・数学教育と数学的な考え方

  • 作者:中島健三
  • 発売日: 2015/07/06
  • メディア: 単行本

 2015年に出版された本ですが,奥付には「本書は、1982年に金子書房より刊行した『算数・数学教育と数学的な考え方―その進展のための考察― 第二版』を復刊したものです。」とあります。ひとつ前のページには,復刻版で独自に付いたと思われる,著者の年表があり,平成6(1994)年10月21日に73歳で逝去と記されています。
 かけ算のことも書かれている第2章を読み進めていくと,ピアジェの名前が出てきました(pp.110-111).

 さて,数学教育の現代化では,結局において,集合,位相をはじめとして,従来,高校または大学などではじめて指導された抽象的な内容を,中学校から,さらには小学校からも指導しようというねらいに立つことになるが,そのためには,それを支える学習理論が必要なわけである。
 たとえば,よく知られるピアジェ(J. Piaget, 1896-1980)などの考えでは,こうした抽象的な内容は,少なくとも,11,12歳以降の,いわゆる形式的操作による思考が可能な段階にならなければ適当でないということになろうし,ピアジェ自身も,年齢を下げて早くから教える「促進」に対しては,きわめて消極的な立場に立っていた。

 この本での,ピアジェのとらえ方は,上記の段落のみです.
 続いてブルーナーの名前を持ち出します.こちらへの言及のほうが,字数が多いのです(pp.111-112).

 これに対して,いわば,うまい考えを出したのが,ブルーナー(J. S. Bruner, 1915- )で,これについて,シャルマン(ミシガン州立大学教授,教育心理学者)は,次のように紹介している。
(略)
 この考えが,有名で,かつきわめて大胆な『教育の過程』における次の「仮説」を生み出し,いわゆる,スパイラルなカリキュラム構成の根拠にもなっているといえよう。
 「われわれは,どんな教科内容でも,どんな発達段階にあるどんな子どもに対しても,学問的に正しさをそこなわない何らかの形で,有効に教えることができるのだ,という前提にもとづいてはじめるのだ。」
 この仮説には,「どんな」という言葉が何回も用いられているが,それこそ,「どんなむずかしいことでも,学問的な正しさをそこなうことなく,どんな低い段階の子どもにも有効に教えられる」という,大へんな言い方をしているわけである。
 これが可能になるための前提として,形式的,記号的な表現ではなく,行動的ないしは映像的な表現でいい表わし,その表現形式にすれば,どんな内容でも子どもがその意味を正しく認識してくれることが可能だ,という考えをもとにしている。しかも,どんな教科内容といっても,それこそ些細なことではなく,ブルーナーの考えによれば,その「教科の構造」あたる本質的な内容についてのことでなければならないわけである。
 もしこれが可能であれば,大へん望ましいことであるが,数学教育の立場で考えてみたときに,重要な課題や疑問が感ぜられないわけではない。
 まず,「教科の構造」にあたることがらとして,どんな内容を具体的にもってきたらよいかという問題がある。――こういう議論は,いわば,「その教科の本質にかかわる基本的な概念や原理があれば,それを構造と呼ぶことにしよう」ということであって,そうした構造にふさわしい内容が具体的に確定された上で述べていることでは,必ずしもないといってよかろう。

 ピアジェは「よく知られる」ということで名前を出した程度であり,否定的ではないにせよ距離を置いているように見えます。それに対しブルーナーは,「うまい考えを出した」と書いており,その仮説に賛同した上で,数学教育への適用を思案してみたと,読むことができます。
 上記の「1915- 」について,復刻版が出た翌年の2016年にブルーナーは亡くなっています。ピアジェブルーナーについては,検索するといくらでも情報が出てきます。個人的に分かりやすいと思った2件にリンクしておきます。

 引用のあとのほうに,「構造」「本質」という言葉が何度も,出現しますが,「かけ算の本質(構造)」というのがp.77に記されています*1。小数の乗法に関する内容です。同じページの上部に,[図式による操作で,かけ算の意味を]という小見出しが設けられており,「形式的,記号的な表現ではなく,行動的ないしは映像的な表現でいい表わし,その表現形式にすれば,どんな内容でも子どもがその意味を正しく認識してくれることが可能だ,という考えをもとにしている」を具体化したものと読むことができます。
 あともう一つ,気になるのは,ブルーナーの「仮説」の中の「学問的な正しさ」です.何が正しいかというのは指導する学年によって,また学校現場を中心としつつもその外をも考慮に入れた社会情勢の変化によって変わり得る,というのは「かけ算の順序」に対しても当てはまりそうなのです。「正しさ」という言葉が気になり,以前に購入していた『教育の過程』を取り出しました。「昭和三十八年十一月三十日 第一刷発行」「昭和四十四年七月二十日 第十刷発行」の本です。Amazonでアクセスしてみると,Kindle版や,オンデマンド(ペーパーバック)によるものも入手できるとのことです。

教育の過程

教育の過程

 読んでいくと,p.42に見つかりました。「第三章 学習のためのレディネス」という章題のあと,「どの教科でも、知的性格をそのままにたもって、発達のどの段階のどの子どもにも効果的に教えることができるという仮説からはじめることにしよう。」とありました。
 中島の「学問的に正しさをそこなわない何らかの形で」よりは,「知的性格をそのままにたもって」のほうが,誤解が少ないようにも思います。とはいえ「知的性格」は一枚岩ではなく,教科や子ども(発達段階)に依存することも,想定できるのですが。


 『復刻版 算数・数学教育と数学的な考え方』の後ろのページには,ある文章題での立式1768÷26の筆算を通じて,等分除が包含除に帰着するというほか,ライフゲーム(Conway's Game of Lifewikipedia:ライフゲーム)を授業でやってみた話も書かれています。今後もときどき開いて読むことにします。

*1:本日のエントリでは,「かけ算の本質(構造)」が具体的に何なのかについて関心を持っていません。本はないけれど関心のある方は,https://takehikom.hateblo.jp/entry/20150720/1437344285にて書き出していますのでご覧ください。